[長め後編]『共鳴するからだ』× 轆轤 (ミミズクさんは内容とあまり関係ありません)
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- Опубликовано: 18 окт 2024
- 『共鳴するからだ:空間身体学をひらく』晶文社
片山洋次郎 田畑浩良 藤本靖 / 共著
以下記すのは本の紹介というより、細工場における仕事との共通点を発見していく文章です。
一般的な語義にこだわらない忘備録的な記述ですので、申し訳ありませんが、いつにも増して伝わりづらいところ多々あると思います。
ご了承の上、お読み頂けましたら幸いです。
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ボディワーク施術者御三方の対話形式で綴られてゆく本。
身体の視点から織り成されるお話は独特の雰囲気があり、とても興味深い。
自分の体感も変わり得るから、いつか再読した時、新たな魅力に気付けたらいいなと思う。
冒頭、神経生理学に通じ整体やロフティング®もされている、本の発案者藤本さんの前書きから始まる。
様々な問題は『間合い』にあるとして、数値的な健康とは異なる生命力の賦活を言葉の往来から探ろうと本書を作られた。
(身体vs.言葉ではなく、変容の時に必要なものとされている)
第一章 片山さん×インタビュアー藤本さん
第二章 田畑さん×インタビュアー藤本さん
第三章 片山さん×田畑さん×藤本さん(鼎談)
ぐんぐん気流に乗るように一気に読み終わってしまい、もっとゆっくり拝読すれば良かったかしらん。と、少し後悔したと同時に、読前よりふわっと身体が楽な感じになったのが不思議でした。
言葉も音叉のように共鳴するのかな。。
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第一章
片山洋次郎さんは整体師。
施術においては、直す人/治りたい人という区別やコントロールなく、主客同一的なダンスをする如しが理想なんだとか。
以前しばらく通った野口整体の指導教室で2人でする活元運動があり、それはまさしくダンスだったのを思い出した。
なかでも、オートマティックシフティングといって、身体のより深い層でさらなる新たな渦を探していく状態があるらしく、「それって、まさに轆轤じゃん!」と嬉しくなってしまった。
その現象のコアは言語化できないけど、そこに向かうプロセスは言語化技術化できて、コアには共鳴という“空”があるんだそう。
共鳴のコア(核)。。
、、シビれるわ。
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第二章
田畑浩良さんはロフティング®という技法を使うロルファーさん。
(めちゃくちゃ蛇足だけど、作家吉本ばななさんの旦那様でいらっしゃる。前々から気になる方だった。)
御三方のなかで一番言葉の物腰が柔らかい印象。あり得ない位、施術者が不干渉であるワークをされていらっしゃるらしい。
大事なのは内側の音を聞くことで、気持ちよいか否かという気分はそれが常識的かどうかは別であり、『そう感じた』ということを自分で認識すること、、とある。
考えるに、当たり前が当たり前じゃない現在だから、逆にこの言葉が際立って存在しているんだよなぁ。。
自己の感覚より社会的常識を優先し続けたら身体はいつかその軋轢で悲鳴を上げてしまいかねない。。
さらに田畑さんはホールドやグランディングという意味とは異なる『イールド=委ねる感覚』をとても大切にされている。
それは能動と受動の間を繋いでくれているもの、自らその場所に「からだを委ねていい」と許可して初めて起こせる〈動き〉であるいう解説があり、なるほど合点。
動くことが基盤の積極的な受け身。
揉み上げた粘土が回転する轆轤上で動き出すのをひたすら待つ時に似てる。
『自由に動ける中に関係性があるというのは秩序があるということなのかな。』
細工場の仕事もそうだ。。
自由なんだけども、同時にそれは内なる秩序と方向性で成り立っている。
内から満つるものがあるのかないのかは本当に重要で、同じだけ注ぐ力が逆のベクトルを向き結果全く別物になるから、そこは失えない。そして、腕に血肉化されてゆく。
(但し、当然「ものづくりにおいての自由とは何か」は人それぞれだから、あくまでこの話はうつせみヤの場合です。
異なる意見も多々あろうかと思いますが、主義主張ではなく単なる個人の見解を話す場ですので何卒宜しくお願い申し上げます。)
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第三章
鼎談
自分の空間を持つことが、即ち他者との空間を共有している形であり、目指す主客同一は因果ではなく縁起。
間の縁(ふち)までは時間や意識もあるが、間のコア(=淵、ふち)ではそれらは消え去る。さながら内側から外側の空間へ身体が浸透しているような感じがよいとある。。
(ここで表される時間とは横並び的な数字の意味)
本を通じて御三方が仰っている内容について、わたしの頭脳理解は一角の一端にも満たないだろうけれど、いい土揉みは身体の無限内外間に存在するのは自分なりに腑に落ちている。
ジャンルは違っても似た感覚を大切にされている方々がいらっしゃると知れて、心底嬉しい。
表紙の裏、
『存在の知覚から拓かれるからだへ』
『拓かれるからだ』かぁ。。
拓くって、外に開くのと内を拓く(開拓する/潜水する)のとが、同時っぽいなぁ。。
「汝の足元を掘れ、されば泉湧く」って、なんか、昔の人、言ってなかったっけ?
(後調べ ニーチェ)
それとも違う意味なのかな?
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なんとなくまとめ
身体性とは、西洋医学における身体の内側だけで完結するようなものでなく、外の世界との関係性=「自然」と「自己」の『間合い』にある。との、藤本さんの言葉が端的に殆どを言い表していると思う。
あえて自分の言葉で表すと、両者間に自在にたゆたう淡いの存在を感じられることが大事。と、なるのかな。。
居付かないことの重要性は古武術の甲野善紀さんも仰っていた。
轆轤の指も同様に粘土に居付かない。
しかし、その淡いは明快な輪郭あってこそなので、だからこそ日々が大切。
瞬間の淡いを極めるには、重ね出会う輪郭への解像度が(自らに)問われる訳か。。
抽象的な話になってしまいましたが、感覚を研ぐって、そんなとこありそう。。(緩急どちらも必要)
輪郭と淡い
往来間の生み
だから果てなくて、楽しい
自分と自己の 間
言葉と身体の 間
身体と身体の 間
言葉と言葉の 間
昼と夜の 間
音と音の 間
時 の 間
時 間
とき ま
逢魔時
とか
時空の逢瀬
なんにせよ
生まれるものは尊いな
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以上、思いつきを書き連ねてみました。
最後までお読み頂きありがとうございました。
#共鳴するからだ#轆轤#焼き物